大雲寺公式ページ=(Daiunji)天台證門宗、京都洛北の古刹・天禄2年(971年)創建・円融天皇勅願寺、山号「紫雲山」「石座山」を有し最盛期には一山三塔、七堂伽藍四九院・僧兵千人をかかえていた。
源氏物語「若紫」の舞台となり、紫式部の曾祖父(真覚上人)が初代住職をつとめた。第四世住職「成尋阿闍梨」「参天台五台山記」・井原西鶴の「好色一代女」・太平記の舞台として大雲寺は有名。
本尊は「行基菩薩作」十一面観音・歴代阿闍梨の霊力で脳病を平癒させ、境内にある閼伽井(あかい)からは観音水と親しまれる霊泉が湧きでて、今日も万病に効くと信仰されている。当寺は加持祈祷を行う密教寺院で、
難病平癒・霊障除去・死霊・悪霊・不成仏霊・生き霊等を済度することにより霊障除去を行う。現住職の霊視能力、加持力は天台密教を極めた阿闍梨にのみ与えられる 不思議な霊力である。
境内には三面石仏・松尾芭蕉句碑・藤原藤房(万里小路中納言)髪塔などあり。 納骨、永代供養、承ります。在家密教道場(得度・僧籍・専修課)・・・・文 (酒井善敬)

                   成尋阿闍梨

                        

                                                 

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  寛弘七年(1011年)生、7歳で大雲寺に入り文慶に顕密を学び

行円・明尊から台密を受け長久二年(1041年)第四第大雲寺別

当となる。『観心論注』 『法華経注』などの著作の他、宋に渡り各

地を旅したときに残した紀行文、『参天台五台山記』は日中文化

史上、不朽の名作である。天台密教の奥義を極めた成尋の生涯

の悲願は中国への留学であった。当時中国は宋の時代である。

遣唐使は寛平六年(894年)に菅原道真により中止されていた が、

以後200年日本と宋の間には往来する中国の商人も多かった。

その、商船(※1)に便乗して宋に入り大陸の文物を学ぼうとする

僧も相次ぐ時代であった。智慧をつかさどる文殊菩薩がこの現世

(うつしよ)に姿を現した地といわれる五台山を訪ねる事−それが

成尋阿闍梨終生の願いだった。

 すでに六十歳に達し、残された命もわずか・・・と感じた日、阿闍梨の入宋への決意は激しく燃え上がった。

その 阿闍梨の心は、延久二年(1070年)正月、六十一歳の時、入宋の許しを朝廷に願った成尋の文章に

如実に示されている。それには、入宋のため「三年間、一時たりとも横になって寝ない」という凄まじい精進を

積んだことを語り、年来の思いがとげられねば、これ以上生きて何の益があろう、と不退転の決意が述べられている。

※1  『扶桑略記』の廷久4(1072)年3月15日には、京都岩倉の大雲寺高僧である成尋

(当時、書道で有名な藤原佐理の子)が、「肥前國松浦郡壁(加部)島」から「唐人一船頭

曽衆之舶(船)」(『元享釈書』巻16の記述により、この船は「宋商孫忠」の所有船であるこ

とが窺われる)に乗り込み、入宋果たしたことが記されている。
 

        老いて子と別れる悲しみ

                   成尋阿闍梨の母

         忍べども子の別れ路(ぢ)を思ふには唐紅(からくれなゐ)の涙こそふれ 

 成尋の願いは、翌年二月ようやく実現されることになった。大雲寺を出発、入宋の渡航地、九州博多へ向かう。

その時成尋の母は八十歳を超えなお健在だった。旅立ちは、子の成尋にとっては永年の望みの実現に踏み出し

た第一歩だったが、老いた母には愛しい我が子との悲痛な別離の日だった。

 成尋には、仁和寺の律師(りっし)の兄がいた。母にとっては二人の息子である。だが母は末の子で、心優しい

成尋をとりわ老いの日々の頼りにしていた。すでに年八十余。当時としてはまれな長命を生きた母の唯一の願い

は「絶え入らん折り」・・・自分の死の枕辺に二人の息子が共に並んで念仏を唱えながら、最後をみとってもらうこ

とだけであった。それが突然の成尋との別れである。

 成尋が入宋の計画を初めて母に告げたのは、朝廷に文を呈した年の前年、延久元年(1069年)のある日だっ

た。その年、母は八十一歳「命あれば無事帰国してお会いしましょうが、もし万一私の命が失せた時にも、必ず

や極楽で再会できましょう」と語る成尋の言葉に、母は胸もふさがり声も出ぬ悲しみに突き落とされた。

 この二年前から大雲寺の近くの草庵に招かれ、最愛の子の顔を間近に見、母には思い残すこともない幸せな

日々だった。それが一転、この老いた母を残し、子は異国へ渡る。

 成尋の旅立ちの日まで生きるまい。「今日明日までも死なむ」と祈る母だったが、ついに旅立ちの日は来た。

延久3年2月2日である。大雲寺をたつに先立ち、成尋は兄の住む仁和寺に母を移した。正月30日仁和寺から

は迎えの車が来た。「旅立ちの時まで子のそばに・・・」との母の希望も許されなかった。車に乗せられた母の目

は涙で霧わたり、見納めと思う成尋の姿もおぼろにしか見えないのだった。

       惜しみわび 音(ね)のみ泣かる別れ路(じ)は 
                    
                   涙もえこそ 留(とど)めざりけり

   現代訳 
別れを惜しんで、声をあげて泣いてばかりいる自分は、成尋を引き留めることが

         できなかったように涙もまたとどめることができないでいる。

 
十一首の悲しみの歌を、母は子への餞別(せんべつ)とした。

 
成尋とて母を思わぬではない。先に朝廷に奉った文にも「家には老いた母があり、朝夕のいたわりをどうして

忘れることができよう」と案じ、今また母の歌をみて彼も夜すがら涙を流した。だが、入宋は生涯の悲願である。

母の涙によっ止められるものではなかった。

  成尋は延久4年3月15日宋の商船にのり、11日間の船旅を経て念願の中国についた。五台山巡拝を果た

した後、翌年3月干ばつに悩んでいた宋の神宗皇帝の命を受け、雨乞いの祈祷をしてみごと成功、宋の人々

を驚嘆させた。また、潔白な人柄と相持ち、菩薩と崇められ、皇帝から帰国を引き留められ、当初3年の滞在

予定が10年を中国で過ごし、そのまま東京(とんきん)の開宝寺で没した。  永保元年(1081年)10月6日

71歳であった。

 神宗皇帝は天台大師の廟壇の横に、廟塔を建立して、善恵大師(ぜんねだいし)と賜号された。また 大師

の袈裟法衣・仏具を勅印を押して丁重に大雲寺まで返送された。



 一方、”涙の川”に沈んだように日を送り、わが子の帰りを待ちわびていた老婆は、成尋が宋に渡った翌年、

延久5年、85歳で世をさった。最愛の息子との離別を詠んだ175首の歌は 「成尋阿闍梨母集」として王朝

時代の母の心を今日まで語り続けている。

             母と子は再びこの世で会うことはなかった。
                                  

    成尋阿闍梨は、入宋の翌年に教典400余巻、異風の仏像数十躰、

       自画像(右上写真:延暦寺文庫蔵)等を大雲寺に送っている。

   これらの品は、天文の戦乱1546〜1551までは大切に保管されていたが

   戦火で悉くを焼失し、成尋が大雲寺にもたらした品々で当寺に現存するのは

   阿弥陀如来1躰のみである(下写真左)

             

     
    
成尋阿闍梨が宋から送った仏像                   高山寺蔵 羅漢図
  
        宋代 阿弥陀如来座像                 
成尋阿闍梨が送った内、一品